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2006年11月

初・タッチ!!ママの手保育器の中に

11月30日(生15日目) 426g ミルク0.5ml×8回

初めてあやたんに触れた。そーっとそーっと緊張の一瞬だ。

丁寧に丁寧に手を洗い、保育器のドアをあけ、中に手を入れる・・・

指先でツンツンするように触るとびっくりするので、手のひら全体で包み込むように触ってあげてくださいね、と看護師さんのアドバイス。

包み込むように・・・といわれても、小さな体にはチューブやコードがたくさんで、どこにどう手をもって行けばいいのかわからないぐらい。どちらかというと小さいママの手のひらにすっぽりと隠れてしまうほどの小さな体。やっと触れることができた。保育器の中から小さな小さな子猫のようなあやたんの声が聞こえた。

久しぶりに担当の先生とお話をした。あの日、蘇生を担当してくれた先生だ。右手は血圧測定のコード。左手の点滴はたんぱく質とアミノ酸。左足の点滴は脂肪。母乳を1ml飲めるようになったら脂肪の点滴が取れ、6ml以上になったら左手の点滴が外せるのだそうだ。抗生物質の投与は終了。そんなことを説明してくれた。

今後、注意しておかなければいけないのが「水頭症」だという説明が続いた。肺と脳の出血の後遺症として、出血の3週間後ぐらいから脳に水が溜まるという症状が出始めるらしい。注意深く、経過を見ていきますといこと。

先生は「あれだけの出血から、ここまで回復したのだから、この子は強いよ」って言ってくれた。

ずいぶん後になって、先生は「あの時は、ほぼあきらめていたんだよ」と本音を教えてくれた。

ママ久しぶりに会社に行く

11月28日 (生13日目) 体重400g ミルク0.3ml×8回

久しぶりに会社に顔を出した。みんなの驚く顔・顔・顔・・・。

なにしろ突然の産後休暇に突入したのだから、中途半端なままの仕事が山ほどある。人事上の手続きも待っていた。まだまだ体調が完全ではなく無理はきかないので、引継ぎ書の作成と机の本格的な片付けは次回に回すことにした。広報室の仲間には頭が上がらない。特に、締切りが迫っていたやりかけの仕事は、室長と先輩の二人でなんとか仕上げていただいたようで、本当に申し訳なくて仕方がない。1月からの仕事の振り分けが急に早まってしまい、後輩もなんだかずいぶん発破を掛けられている様子だった。

それにしても、妊娠届けと産前産後休暇届け、育児休暇に関係する申請書をいっぺんに提出する人なんてそうそういないはず・・・。

天神でばぁちゃんとランチをすませ、にいたんを幼稚園に迎えに行き、その足で九大まで行った。

生後動かすことがほとんどできなかったあやたんは、前日に体重測定をしたという。

400g、まで落ちていた・・・だけど、とてもしっかりした。肌の色艶も、手足の動きもとてもよい。

看護師さんにそんな感想を話したら、肌が弱く、保護のために塗ってワセリンがはがれたからだと教えてくれた。顔に貼ってあるテープも血のついているものから、ようやくきれいなものに張替えてもらって。体全体がすっきりと、しっかりとした印象だった。

幼稚園の面接

11月26日

退院翌日のこの日は、にいたんの幼稚園の面接日。

ママの会社には、幼稚園に委託した企業内託児所がある。にいたんは1才から、ママと一緒に通勤電車に揺られ託児所に通った。3才になると、託児所から幼稚園にお友達と一緒にバス乗って行き、また託児所に帰ってくる。そしてママの仕事が終わるまで、夕飯を食べたり、お友達と遊んだりして待っているのだ。

計画ではこうだった。あやたんの出産予定日は3月13日。産休に入る1月半ばから3月までは、幼稚園に直接送り迎えをして乗り切り、春の年長さんから自宅近くの幼稚園に転園。そして、にいたん1年生の1年間はのんびり育児休暇を楽しむ・・・。そのつもりで、受け入れてもらえる幼稚園を探し、4月転園で願書を出していたのだ。

その幼稚園の面接が、ちょうどこの日予定されていたのだ。

園長先生を前に「かくかくしかじかの事情により、急ですが3学期からの受け入れをお願いをしたく・・・・」との願いを快く受け入れてくださり、3学期から幼稚園をかわることになった。

転園が早まるのはかわいそうだけど、都市高速で片道約25分の幼稚園まで往復するのは年内だけですむことになった。

ところであやたんは、足からの点滴を外してもらっていた。管がひとつでも取れ、身軽になれてよかった。

『ガラスのお腹』

ママの退院の日、自宅に帰る途中、書店に立ち寄った。

NICUのモニター面会室においてあった本を探すためだ。

タイトルは『ガラスのお腹 ~22週と5日で生まれて~』(著:海月まき子 新風舎)だ。

『小さく生まれた赤ちゃんの安心育児』(ベネッセコーポレーション)も購入した。他にも何かいいものがないか探したけれどなかった。

とにかくあやたんと少しでも産まれた状況が近い子のことが知りたい。

家に帰ると『ガラスのお腹』を一気に読んだ。涙が止まらない。理由もなく涙があふれ出てくる。あやたんが産まれてこの日まで、こんなに泣いたことがない。気持ちが張り詰めて封印していた想いが、家に帰ってきたことと本を読んだことで一気にあふれ出てきてしまった。

NICUを退院したのは1年4ヵ月後・・・

あやたんの入院計画書には4~6ヶ月と書いている。

パパとママは、あやたんの退院の目標は誕生から「半年後」と定め、とにかく前へ進んでいくしかないと決めた。

早産の原因

11月25日

ママの退院を前に改めて医師から今回の出産についていろいろ説明があった。

『常位胎盤早期剥離』・・・これが、あやたん早産の原因。

とても稀なことで母子ともに命の危険にさらされる可能性が高いもの。全妊娠の1%程度で起こるのだそうだ。

http://tyama7.blog.ocn.ne.jp/obgyn/2006/01/post_754a.html

http://www.fab.or.jp/abruption.html

説明では胎盤の40%が剥がれていたと、写真も見せてもらった。

胎盤剥離にいたった原因も、入院中の血液検査で調べてみたと。もしかしたら「抗リン脂質体症候群」の可能性もあるかもしれないが、ただし、これは再度、血液検査をしてみないと、そうだとは言い切れない。ただ、確かに血栓が出来やすい状態になっていて、今回のことにつながったのだろうとのことだった。(1ヵ月後の血液検査の結果、そうではなかった。ただ、一時的になった可能性もあるとか??)

いろいろ本などを読んでいると、胎盤剥離では腹部の激痛があるという。私の手術計画書にも「強度の腹痛」と書かれていたけれど、実際、ママはお腹が痛かったという記憶はない。確かに、運ばれている間、お腹を抱えていたけれど、それは腹痛のためというより、無意識の「お腹の赤ちゃんを抱っこして守る」行為だったと思う。

母子ともに、もしかしたらなくなっていた命。様々な幸いが重なって助けられたとしか言いようがない。

家の鍵を忘れたことで、パパと緊密に連絡を取って近くにいたこと。

出血が、パパが出張に出発する前だったこと。

そして、なによりも九大のベットが母子ともに空いていて、すぐに搬送されたこと。

家での出血が、午後8時ちょっと過ぎ。かかりつけの産院に到着したのが、多分午後9時前。そして、55分間の手術であやたんが誕生したのが午後10時52分。

その間、約3時間。これが1時間でも遅かったら、あやたんはこの世にいなかったかもしれない。

どうしてもこの話題になると、妊婦のたらい回しのニュースが頭をよぎってしまう。命を左右する救急の仕事に従事する方々にとっては、気が休まることがない連続だと思う。

あやたんはというと、人工呼吸器がパックンパックンとうものからブルブルブルと振動するものに変わっていた。このほうが、肺胞へのダメージが減るのだそうだ。

結局、ママはPICUから一般病室に移ることがないまま、11日間の入院生活を終え自宅に帰った。

やっぱり無理していたのかな・・・

11月24日

初日の母乳も順調に消化できたようで、2日目は早速、1日4回から3時間おきの8回に増えた。母乳のせいか、肌もピンク色になっている。おしっこもウンチもちゃんとした。当たり前のことだけど、とっても嬉しい。

病室で一人ベットの上にいると、体がずいぶん楽になったせいかいろんなことを考える。

やっぱり知らず知らずのうちに無理していたのだろうか・・・って。

妊婦検診を1週間先に延ばしたことを後悔してももう遅い。とにかく11月のママは忙しかった。そして体調も決して良くはなかった、というか疲れが回復できない状態の毎日だった。

血圧が高くなってきて、足がむくみ始めているのは自分でもわかっていたし、次の検診では間違いなく産婦人科の先生に怒られるのを覚悟していた。

あやたん誕生直前の週末は、にいたんの幼稚園のバザー、翌日は七五三で写真館と佐賀のじいちゃんの家を往復した。

仕事も、もちろん立て込んでいた。

にいたんがお腹がいたときも、婦人服のバイヤーとして走り回っていた。だから今度も大丈夫だと心の中のどこかで自分を過大評価していた。でも、やっぱり年をとっていた。36歳はやっぱり危険だったのだ。無理をしているつもりはなくても、体は悲鳴を上げていたのだ。

いくら後悔しても、もう時間を前に戻すことはできない。

やんちゃ娘に母乳スタート

11月23日

やっと口の回りの血もきれいにふき取ってもらっていた。

前日から看護師さんもようやく保育器の中に手を入れることができるほど安定してきたのだそうだ。そこで、ようやく母乳も始めることができた。

ママもなんとか搾乳し、前日分とあわせて持っていった。予定日よりはるかに早い出産、しかも帝王切開での出産なのに、微量とはいえちゃんと母乳が出るから人間の体って不思議だ。

初日は、その量わずか0.3ml×4回(6時間おき)

看護師さんの話によると、あやたんはなかなかのやんちゃ娘のようだ。

体温を測定する黄色のコードをいつの間にか外してしまうらしい。今もしっかりと握っている。

なんだか、初めてと言ってもいいぐらい、あやたんの頭から足の先までじっくり観察するように見た。頭頂部は黒っぽい、目はまだ完全に閉じている。というより、きっとここが開いて目になるんだろうなという筋がある。耳は福耳??

今から発達しなければいけなかったところが、ちゃんと出来上がっていきますように・・・。

いきなりの産後休暇・・・なんだ。

1月21日

出産から1週間たち、ママはようやく点滴も取れ、抜糸もしてもらった。食事もどうにか普通量を食べれるようになり、部屋の中にあるトイレにも一人で歩いていけるようになった。

薬も効いているようで、血圧もずいぶん安定してきた(とは言っても130~150を行ったりきたりしているけど)。

頭痛も治まり、座ることができるようになり、思考する余裕が戻ってきた。

ママには、どうしても解決しなければいけないことがある。それは仕事のことだ。

ママは某デパートの広報の仕事をしている。産休は1月半ばからの予定。仕事を引き継ぐのはまだまだ先のことだったから、職場にとっても大迷惑な突然の出来事なのだ。

締切りに追われている原稿がいくつもあるし、校正紙を引き上げなければいけないものもたくさんある。いけないことだが、病室で携帯片手に同僚にお願いをしながらどうにか乗り切ってもらった。きっと現場は、私が思っている以上にとんでもないことになっていたに違いない。

ママはようやく気が付いた。つまり・・・突然、産後休暇に入ったことになったわけだ。

久しぶりのにいたんとの時間

11月19日

にいたんと久しぶりにゆっくり会うことができた。

5歳のにいたんは、産科の病室に入ることが出来ない決まりだ。しかも、ママのいるPICUは看護師さんのカードキーをスキャンしなければ入ることができない。

ママはまだ車椅子を卒業してもよいという許可も出ていない。帝王切開で出産した人も、傷口を早く治すために、少しでも早く動いたほうが良いと言われる時代なのに、ママは絶対に許してもらえない。だから自由にラウンジに出て行くこともできない。

看護師さんが押す車椅子に乗ったママの姿・・・。

にいたんの頭の中は「車椅子のママ=15日の事件」とインプットされているので、ママに会えるのは嬉しいけれど、車椅子のママの姿は悲しくもある・・・というなんとも複雑な表情をしていた。

ばぁちゃんの報告では・・・初めてのにいたんがあやたんに面会するときのこと。

にいたんは、あやたんを抱っこができると期待で胸をいっぱいにしていたようだ。にいたんは、あやたんがお腹にいるときから、嬉しくて嬉しくて心待ちにしていたのだから。

でも現実は、パパは扉の向こうに入っていけるけど、にいたんは行くことができない。そして抱っこするどころか、モニター画面あやたんしか見ることができない。にいたんはショックでショックで仕方がなかったようだ。そして、「もうぼく面会なんかいかない」となってしまったのだと・・・。

そこに、またママが車椅子にのって、蒼白い顔をして登場したのだ。まだ15日の現実が終わっていないのだ。

でもママの笑う顔に少し安心したのか、今度は車椅子に興味をもったようだ・・・。帰りは「ぼくが押す!!」といってナースステーションまで連れて行き、大きな声で「ママをよろしくお願いします」と引き渡す(?)と自信満々といった表情に変わっていた。

ママはかなり体力を消耗したみたいだ。さすがに、あやたんのところに行く余力はもうなかった。(やっぱり車椅子を卒業できないのは納得するしかないようだ)

精神的に少し落ちつたのか、翌日にはプレゼントを持ってきてくれた。

それは紙切れに描かれた家族4人の絵。可愛いあやたんもニコニコしている。

にいたんのあやたんへ、そして家族への愛情がたまらなく嬉しくて涙が出た。

あやたん出血の翌日

11月18日(生4日)

ママは朝からひどい頭痛に悩まされていた。どうも血圧が180以上あるようだ。寝たのか寝てないのかわからない状態だから無理もない。夜は食事を全部戻してしまい、また全粥にされてしまった。相変わらず、顔は青白い。

けっして明るすぎることのない病室の電球の明かりさえも、まぶしくて目を開けていることができない。

隣のベットと仕切るカーテンも閉め、目にはタオルを乗せて光という光を遮断。

それでもやっぱりあやたんに会いに行く。どうしてもそうしなければ気がすまない。

NICUに入る最後の扉の前で深呼吸して中に入る・・・。

前日の出血のあとが生々しい・・・。ガーゼも口元も血が赤黒く固まっている。絶対安静で、ガーゼを交換することで発生する振動も、今のあやたんにとっては負担になり、看護師さんも最低限の処置しかできない状態なのだそうだ。

「出血した肺はきれいに洗った」と先生は説明してくれたけれど、いったい肺の中を洗うというのはどういうことなんだろう・・・。(怖くて一年たった今も聞くことができないでいる。)

次もまた同じような場所から出血が起こったら、次はかなり危険だとのこと。

あれだけ小さな体なのだから、ひとつひとつが危険との背中合わせ。一日一日と状況が変化していくことは覚悟しておかなければならない。

肺の出血も心配jだが、脳の出血が気になる。医学に関してはずぶの素人だが、脳出血のダメージが人間としていかに大きいかは簡単に予想ができる。とにかく気になる・・・

初めての試練・・・頭蓋内出血

11月17日

あやたんの名前が決まった。あやたんのあやは「綾」。いろんな人の助けで誕生した命。これから、いろんな人と人との素敵な関係の中で育っていって欲しい・・・そんな思いから命名した。

名前が決まりほっとして、午後8時の面会時間終了ぎりぎりまでいたパパは病院を後にした。

午後8時30分。あやたんの主治医の女性医師が病室に駆け込んできた。「肺から出血してかなり危険です。急いでNICUまで来てほしい」と。

ママは、まだ思うように動かない体を必死に車椅子に移動させ、看護師さんに押してもらいNICUに向かった。

緊迫した冷たい空気が流れている。保育器の中に手を入れ、小さなポンプのようなものであやたんの蘇生を必死にしてくださっている先生の姿が飛び込んできた。ガーゼは血だらけ・・・。モニターはずっと赤いランプが点滅している。

一瞬、テレビドラマによくある、あの心拍モニターが「ピー」と波形が平らになってしまうシーンが頭をよぎってしまいそうになった。

ママは、あやたんを半ば叱り飛ばすように凝視して、心の中で「あなたは死ぬんじゃない。生きて、やらなければいけないことがあるから生まれて来たのよ!!」と叫んでいた。

きっと、ママの形相はすごかったのだと思う。状況を説明しようとしていた先生の口が閉じたのを背後で感じた。

パパも病室にやってきた。

肺からの出血、そして血圧の変動のショックで脳も出血しているようだとの説明を受けた。

そしてパパは聞いた。「たとえ1%でも、助かる確率はありますか?」

その気迫に満ちた声に先生は、「はい」と答えてくれた。「それでは、全てを先生にお任せします。娘をよろしくお願いします。」

戻りたくはなかったけれど、ママは病室に戻るようにいわれた。パパはフロアの待合室で待機することにした。

明け方、あやたんの蘇生をしてくれた先生が、コーヒーを買いにパパが待機していた待合室に来た。なんとか容態も落ち着いたようだ。

一夜明け、初対面

11月16日

朝、執刀してくださった先生が病室に来てくださった。「452gの女の子。大丈夫、ちゃんと生きてますよ」との言葉。

あのパパの言葉は夢じゃなかったんだ・・・早く会いたい。

看護師さんが「NICU行ってみる?」と言ってくれたので、当然「行きます」と答えた。

でもママの体は動かない。全身麻酔と帝王切開の傷のせいだけではないようだ。

血圧の異常な上昇からくる頭痛、しかも成人の半分の値しかない貧血状態にあったと後で看護師さんから聞いた。

ベットから車椅子に移るだけでもいったいどれだけの時間を要したのだろう。こんなにも体が自由にならないのが辛いことだとは。「無理して行かなくてもいいよ」と言われたけれど、何が何でも会いに行く!!わが娘に会いに行く!!とママはとにかく必死だった。

車椅子を押され、初めて入ったNICUはとても不思議な空間だった。緊張感ただよう機械の音と相反するように看護師の方々の笑顔。

そして、たくさん並んだ保育器。奥に6つの保育器が並ぶ部屋。その左の一番奥に我が子がいた。

全てがママにとってはじめてのこと。こんなに小さな命の存在があるとは・・・知らなかった。「未熟児」といっても2500gぐらいに満たない赤ちゃんのこと、ぐらいの認識しかなかった。目の前にいるわが子は私の手のひらにのるほどの大きさしかない。

まだ目すら完成していないわが子・・・。在胎23週1日。つまり妊娠6ヶ月後半の胎児の姿がそこにある。

「大丈夫、使命あって生まれてきた命。絶対に大丈夫」

晴天の霹靂!あやたん誕生

11月15日

かかりつけの産院の玄関で、私は救急車の中に運ばれた。にいたんの、「ママと一緒に行く~」と泣き叫んでいるのが聞こえる。だけどそれは叶わず、にいたんはパパの運転する車で後から追いかけてくることになった。

大野城の産院から都市高速を経由して、九州大学病院に到着した。

パパの車は、当たり前だけどまだ到着していない。

診察を終えた医師は「覚悟だけはするように、とにかく時間がない。すぐに出します」と。本来ならば手術の説明と承諾書を記入したあとでの手術だが、とにかくそんな余裕はないとのこと。

とにかく、まわりがドタバタしている。私はただされるがまま・・・。麻酔科の医師も、早口でアレルギーなどに関する質問をする。そして「は~い、大きく息を吸って・・・」全身麻酔で帝王切開手術に入った。

家で出血して約3時間後

  2006年11月15日 22時51分 あやたん誕生 

  在胎週数 23週1日 出生体重 452g、身長26.8cm 

  早産児、超低出生体重児、アプガースコア1/3 新生児仮死

当然、あやたん誕生の瞬間を私は知らない。

病室のベットで、たしかにパパの声で「大丈夫、女の子だったよ」

そう聞いたような気がする。その後、ママの母の声を聞いたような気がする。

意識がまだ朦朧としている。その声が本当だったのか、夢なのか・・・。今、まだ夜なのか、夜が明けたのか、何時なのかも分からない。

予定日まで4ヶ月、突然の出血です!

2006年11月15日

その日は家の鍵を忘れて出勤・・・今、思えばそれも「晴天の霹靂」の前触れだったのかもしれない。

19時20分。にいたんと一緒に、いつもの通り電車で帰宅。家の鍵を忘れていたのでパパに連絡して帰宅の時間を合わせていたのが不幸中の幸いだった。でもパパは用事があってそのまま外出した。

20時。にいたんにトイレから「ママ~!」と呼ばれ、その瞬間だった。水風船をパチンと割ったような音とともに突然の出血・・・。パパに電話すれども電話に出ない。とにかくかかりつけの産院に電話をし、事情を説明。「出血なら入院の可能性もあるので準備をしてきてください」と。でも、3月13日の予定日までまだ4ヶ月。入院の準備なんかまだしていないし、体を動かして準備なんかできる状況ではない。「とにかく行きます」とだけ伝えて電話を切った。自宅近くでの用事が終わったらそのまま県外に出張に出る予定だったパパ・・・やっとパパにも電話がつながり、車で急ぎ産院へ・・・。

にいたんは気丈に「ママ、僕の肩につかまってね」と一緒に歩いてくれた。ところが産院で車椅子に乗せられたとたんに「ママ~!!ママ~!!」と泣き出してしまった。とにかく普通ではないママの状況に困惑、どうしてよいかわからない様子。パパはとにかく、にいたんを抱っこして診察室の外で待機、にいたんの泣き声が聞こえてくる。

さて、診察室での私はというと・・・。医者の顔色がさっと変わり、私への説明よりも先に九大への受け入れ要請の電話と救急車の手配を指示している。「とにかく覚悟しておいてください」とだけ言われ、じっと救急車が来るのを待っていた。

診察室の外ではパパが説明を受けている様子。

大丈夫、大丈夫・・・。心の中で祈るのみ。

救急車のサイレンが聞こえてきた。

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